溶接用語のルーツ

 

溶接用語の話


「溶接」
 金属接合法として、わが国にはじめてろう付が伝わってきたのは中国、韓国経由である。
溶接をこの漢字圏から追ってみると、まず中国では現在は糸克接(ハンジイ)とあるが、略字化される以前は鎔接(ロンジイ)で、現在の中国語辞典ではこの両者が載っている。次いで隣の韓国では、熔接(ヨンジョップ)で、これは以前から変わっていないらしい。 わが国では、江戸期までろう付が主流であったので鋳掛けと呼ばれており、溶接と名は出てこない。1909年に発行されたわが国最初の溶接技術書と思われる「金属合金及其加工法」では鍛接(WELDING OF METALS)としており、溶接とは呼んでいない。 次いで目に付いたのは造船関係の雑誌(1918-8造雑)でロイド船級協会の溶接規定が紹介され、そこでは熔接の字は出てくるが「わかしづけ」とルビが振ってある。鋳掛けが溶融金属を流し込み交配させるの意味からすると、この場合は母材を沸かして溶かしてから付けることを意識して、このようなルビになったのかもしれない。 以後、わが国では多少の前後混乱もあるが、鎔接、熔接、溶接の順で変わってくる。これを溶接関係誌の表題で見ると、電気鎔接協會會誌(1926年)、鎔接協會誌(1933年)、熔接協會誌(1936年)、熔接學會誌(1943年)、溶接学会誌(1960年)となっている。


「アーク溶接」
 アーク溶接は、1909年の「金属合金及其加工法」では電気鍛接法(ELECTRIC WELDING)としており、しばらくたって電気鎔接(1920-4造会)として紹介されている。以後、ガス溶接の吹管鎔接法に対する電気鎔接法(1926-8電気鎔接協會誌)として定着している。 これが電弧鎔接(1929-3造船協會雑纂)に変わり、戦後しばらくして、カタカナのアーク熔接(1952-8熔接界)が出てくる。そして熔接が溶接にかわる1960年頃から現在のアーク溶接となる。


「ろう付」
 ろうは動植物から採取する脂肪に似た物質で熱すれば溶け易く、燃え易い物質の意味と金属接合に利用される金属の総称と書かれている。 ろう材の古くは奈良大仏建造時の記録で白鑞(シロメ)とある。後には白目、しろなまり、はくろうとも言われ、錫に鉛を混ぜた合金で錫合金細工の接着剤や、銅容器の錆止めとして使われている。 しろめの白は、黄金(こがね)、白銀(しろがね)、黒鐵(くろがね)のように、古代では金属を色で表現していたので、その金属色からきているようである。めは折り目と同意と端と端を結びつけるの意味ではと思われる。 ろうの語源は中国語のラオではと考えていたが、ドイツ語のはんだを意味するLOTからだとする説がある。発音上の偶然の一致か、どちらかが教わって同音になったのかはわからない。 技術誌では、はじめは鑞附法(1926-8電気鎔接協會誌)として紹介されているが、翌年の翻訳文(1927-5電溶協)ではBRAZINGを鋳掛け、SOLDERINGを半田付けと区別し、ろう付の名は見当たらない。


「はんだ付け」
 はんだはいつ頃から使われだしたのだろうか。徳川綱吉の時代に書かれた貝原益軒の万宝鄙事記(1705年)では、銅容器の漏れを塞ぐに表面を松ヤニでこすり、錫鉛棒を傷口を塞ぐ程度の大きさに切り、傷口にのせて裏面から炭火で加熱し、錫鉛片を溶かすとあるので、この時にははんだの言葉はない。 これが幕末の慶応二年(1866)になると、江戸守田座で初演された河竹黙阿弥の歌舞伎狂言「船打込橋間白波」の脚本に、鋳掛の松と呼ばれる溶接工の「鉛や盤陀の売物なら要らないよ・・」と云う台詞がある。字は違うがこれがはんだの原型かと思われる言葉が出てくる。 このはんだの語源を二三の大辞典でみると、福島県半田鉱山かマレー諸島のBANDA島だとしている。しかし、前者は明治末の山崩れによる閉山まで1000年ほど続いた官営銀山で、鉛はともかく錫産出の記録はない。それに盤陀が半田となったのが、明治近くからだとすると、単に名前が似ていただけとも思える。 後者のBANDA島が錫鉱山ではと探したがその島はなくBANDA海のみである。世界的に鉛の産出地は多いが錫鉱山はごく限られ、インドネシア付近では三島のみとあり、いずれもJAVA海内である。BANDA海とは相当離れているので、こちらの説も信憑性は薄すそうである。 ろう付技術が中国経由で導入されているので、軟質ろう材を意味するハンラの発音が少し変形したのではと思っているが、これも古くは鎔鑞(ロンラ)だったとされているので、この話も少々怪しい。 あれこれ考えると、俗説で云う錫と鉛の混合比がほぼ「半々だ」を、なまって半田になったとするが、一番本当らしい語源のように思える。


「肉盛溶接」
 最初は植肉補強(1918-8造船協會雑纂)として紹介されている。次いでそば好きの人がつけたのか補修盛懸(1926電気鎔接協會誌)となり、これが盛上熔接(1930-10造船協會誌)と変わる。今日の肉盛溶接の字は1927年の鎔接協会誌からである。


「アセチレン」
 わが国へアセチレン導入されたのは1909年頃で関東と関西の二系統からで、ほぼ同時である。関東はドイツ経由でアセチリンとして関西はフランス経由でアセチレーヌとして紹介されている。したがって、はじめてのガスボンベによる大事故を伝える1918年の東京朝日新聞ではアセチリン爆発の見出しになっている。これが1920年頃の造船協會誌からアセチレンに替わり今日に至っている。 一方関西から発行されていた電気鎔接協會誌(1927-5)では、酸素アセチレーヌ瓦斯鎔接とアセチレーヌの名が続いており、1931年になってやっとアセチレンが使われ出してくる。しかし、フランス系の帝国酸素が発行していた雑誌「鎔接及切断」では、依然としてアセチレーヌにこだわり、1943年の軍の圧力か用紙不足で廃刊となる寸前に、やっとアセチレンと書いている。


「突合せ溶接」
 初期の突合せ溶接が、板ではなく細径丸棒をスパークさせて衝撃的に溶接するフラッシュバット溶接からはじまっているためか、衝頭鎔接(1909金属合金其加工法)にはじまり衝接(1918-8造船協會雑纂)、次いで衝合熔接(1931-10造船協會誌)が使われている。 しかし、同年の溶接規定では突キ合セ鎔接(1931-12鎔接協會誌)としている。当時、規則類の公文書が漢字カタカナ記述のためである。ところが造船関係では依然として衝合鎔接(1932-8造船協會雑纂)が使われ、翌年になって突合鎔接(1933-4造船協會雑纂)となるが、同年(1933-4)に出た鎔接協會誌では衝合(ツキアワセ)鎔接としルビを振っているのもある。


「すみ肉溶接」
 すみ肉は、多くの辞典で溶接専門用語だとしている。しかし、使われたのは比較的新しい。鋲構造の重ね継手からきた累接(1918-8造船協會雑纂)がはじめてか思われる。 そして継手を丁型接手(1930-10造船協會誌)、FILLET WELDを三角型熔接(1930-10造船協會誌)として紹介している。これに対して溶接専門誌では、細く糸状に周辺を取り巻き溶接することを意味してか、漢和辞典にもない造語を作っている(1931-12鎔接協會誌)。 次いで翌年にはじめて隅肉鎔接(1932-8造船協會雑纂)が登場するが、この時も同誌の別記事では三角鎔接と書かれており、隅肉鎔接として安定するのは1932年末頃からである。そして今日のひらがなを使ったすみ肉溶接となるのは1955年頃のようである


「母材」
 母材はMOTHER MATERIALが語源だと思われるが、初期には原鋼鈑(1921-9造船協會誌)、少したって原金属(1931-10造船協會誌)、とか母體(1932-2鎔接協會誌)、原板(1932-4造船協會誌)となり、この年の終わりに母材(1932-11造船協會雑纂)が出てくる。しかし、翌年でも原鐵鈑(1933-12鎔接協會誌)としているのもある。


「アーク溶接機」
 1960年頃代まで、造船現場の作業員がアーク溶接機を抵抗器と呼んでいたが、これは昔の桶に水を入れ、電極挿入で電圧調整していた直流溶接機の名残をとどめ、現場だけに通用する慣用語だと思っていた。ところが、技術報告文でもアーク溶接機を抵抗機とか水抵抗機(1920-4造船協會誌)と記述されているのを見つけた。 これが電弧鎔接機(1929-3造船協會雑纂)とか電流熔接機(1930-4造船協會雑纂)になり、今日的なアーク熔接機(1952-8熔接界)になるのは、アーク溶接と同時期である。


「溶接姿勢」
 まず、下向溶接は平水鎔接(1918-8造船協會雑纂)ではじまり、下向(1930-10造会)となるに少し時間がかかっている。 立向は、まず縦鎔接(1927-5鎔接協會誌)とあるが、次いで竪向鎔接(1930-10造船協會誌)に変わり、これがしばらく続いている。 上向姿勢は、立向と同時に頭上鎔接(1927-5鎔接協會誌)として出てくる。そして、上向(1930-10造船協會誌)となる。


「開先」
 1918年に英国クオーシ社(QUASI ARC)より被覆アーク溶接法を導入した大阪製鎖が、突合せ継手の端部処理として、板厚6mmまではI、6.4-9.5mmは70度V、それ以上は60度Vと公表(1921-9造船協會誌)しているのが、開先についての最初の記述かと思われる。しかし、開先と云う言葉は使っていない。 これ以後しばらくは、薄板の溶接しかなかったためか開先は出てこない。十年ほどして溶接変形に関連して開度(1931-10造船協會誌)として説明があり、その翌年にはじめて開先(1932-7鎔接協會誌)の文字が出てきた。 なお、当時は薄板が多かったことや、高価なガス切断による開先取りが嫌われ、シアリング切断でのI開先が主流であった。


「運棒法」
 昔の溶接技能者から、初期の技能訓練で墨を付けた筆をホルダに挟み、目を閉じて立てかけた半紙にウイービング操作をし、幅と直線性のチェックを受けていたとの話を聞いたことがある。 このようなことが一般化していたかどうかはわからないが、運棒は運筆(1930-11鎔接協會誌)としてはじめて出てくる。次いで棒運行(1932-11造船協會雑纂)や運動方法(1936-1造船協會雑纂)となっている。そして運棒となるのは戦後ではと思っている。